ある日、船長が考えたこと。

近年まれにみる大雪の日。

 

僕が会社を辞めて、半年がたった。

 

時代が変わったとは言えこの国では、会社を辞め正社員という身分を捨てるという行為はまだまだ珍しく理解されにくい行動である。

 

縁あって僕は会社をつくり起業家になった。

 

起業し、会社を経営するとはいったいどういうことなのだろうか? 

 

大多数の人間は、経験することができない。

 

実際にこの職種の一端に触れることができるとしたら、それはいつ読み終わるかもわからない途方も無い分量の経営学の本を読んでみたり、本屋に平積みにされた経営者の金言や三文ライターのさもありなんな分析を眺めて想像してみたり、あるいは場末の提灯居酒屋でアルコールをあおりながら愚痴という名の経営者ごっこに興じてみたりするくらいしかない。

 

 かつて一斉を風靡した経営学の専門教育、いわゆるMBAというものを学んだところで、それらをおさめた人間の全てが偉大な経営者として大成したかと言うと決してそのようなこともなく、

 

何ら経営のけの字も知らずろくに学もない創業社長が人類史に残る金字塔を打ち立てたり、万全の戦略をうちたて、オールスターで固めたはずの巨大会社企業が見るも無惨に沈没したり、と

 

ビジネスというのは「こうすれば必ずうまくいく」という法則は存在し得ないのである。

 

結局、我々が経営について見ているものは起こってしまった事象や事例を振り返りながらあれこれと、それらしい理由付けをしたものにすぎない。

 

そして世にはばかる経営者が残している著作というのもようするに自分の身に起こった様々な体験や共通項をより一般的にも理解しやすいように歴史の事例や共通の仕事体験やスポーツになぞらえて解説しているものにすぎない。

 

これは世に数多に経営や成功談をまとめた本があふれながらも、それらを読んで自分もまったく同じことを再現できた、という事例がただのひとつもないという事実が証明しているだろう。

 

 

まだ半年というほんの身近な期間、そして風が吹けば吹き飛ぶような小さな小さな会社をつくったに過ぎず、原体験となるような豊かな人生経験もなく、解釈に価する成功も失敗も存在し得ない、今の自分が経営というものをふりかえったときに、自分は何を語るべきだろうか? 経営とはいったいなんなのだろうか?

 

あえてそれを例えるなら、僕はそれを「航海」だろうと思う。

 

危険をかえりみず、大海原に漕ぎ出し、ある者は莫大な富と偉大な栄誉を手にし、そしてまたあるものは海の藻くずへと消える、そんな帆船での航海の日々。

 

それが、僕が今の段階で経営を例えるに価する共通の事例だ。

 

これは、そもそも株式会社という仕組み自体が、大航海時代の帆船貿易のリスクヘッジの仕組みとして、発祥したのも偶然ではないだろう。

 

 

 前人未到の大航海を成し遂げた船長や、悲劇的な末路をたどった船長に航海記を書いてくれと言ったら、どんな物語ができるだろうか?

 

船員総出で命からがら大嵐を乗り切った夜? 海賊と命を賭けて剣を交わした戦い? 仲間の裏切りで一瞬即発のクーデターが起きたこと? 前人未到の未大陸の発見?

 

きっと息をもつかせぬ一大スペクタクルの冒険記ができあがるだろう。

 

そして、スリルと興奮に手に汗を握った多くの聴衆たちはああ、航海とはなんと危険でロマンチックで甘美な営みなのだろうと胸をときめかせ、そしてそのあまたの聴衆たちの中にはいずれ同じように海へと漕ぎ出す若き冒険家もいるに違いない。

 

ところが、そんな若き冒険家が実際に船に乗ってみて思うことは、それら船長にあの手この手で襲いかかるはずのスペクタルは航海の中のほんのごくごく一部分の物語を切り出したものであって、

 

実際の航海の大半は何ひとつない澄み切った海と奇麗に晴れ渡った空を眺めている日々だということだ。

 

結局のところ船長の仕事の大半というのは、この見渡す限り一面の水平線とあてにならない海図を眺めながら、今、この船は本当に目的地へ向かっているか、向かうべき方向は正しいか、を延々と自問自答し決断している作業に過ぎない。

 

これは嵐の前の静けさなのか? 順風満帆な旅路なのか?

 

いつ終わるとも知れず、正しい答えも見えない自問自答の毎日に、船長はどう向き合うべきだろうか?

 

私は、航海誌、をつけてみようと思った。

 

不思議なことに、一見同じ日々の連続かに思われる航海も、毎日眺めていると何らかの発見がある。

 

ただ、航海の最中はこれら発見が、成功へと結びつく要因になるのか失敗を引き起こす要因となるのかはわからない。

 

これはひとつの実験だ。

 

成功も失敗も未だ規定されえない、航海中の船長が、記載した、航海誌。

 

それは一大スペクタクルに包まれた冒険記でもなく、取り返しのつかない懺悔を綴った反省記でもなく、ただただ発見を綴った記録。

 

もし船長が無事に新大陸を見つけることができたのであればこれらはまさに生きた珠玉の箴言となり、新大陸など見つかりようもなく一介の中二病をこじらせた起業家の讒言であったのであれば、黒歴史として電脳空間の藻くずに消え行くだけだ。

 

というわけで、「ある起業家が100の発見」とでも題して、適宜このブログに投稿していこうと思う。