「やらせ」はそんなにもいけないことなんだろうか。

全盲のベートーヴェンとか言われていた人が、実は耳が聞こえていて、曲もまったく別人が作っていたというニュースが話題になったり、被災地で生まれた感動のラジオを追ったドキュメンタリー映画内で涙を流していたリスナーが実際にはラジオ聞いてなかったりと、ここ最近「やらせ」に起因するニュースが話題になっている。

「やらせ」と言われると、なんだか悪いことのようなことだが、(実際悪いから叩かれてるんだろうけど)

僕は密かに「やらせ」って良い部分もあると思っている。




だって、例えばそれが後にニセモノでつくられたものだとわかったとしてもあの時、あの瞬間感じた感情までもニセモノだったということになるんだろうか。

もしその感情がニセモノなんだとしたら、

「は?何できるふりしてんだよ。聾唖が頑張ってあの曲を作曲してると思って感動した自分に損した。」

「え?泣いたふりして実際聞いてねーんじゃん。このご時世にありがたかって素人のラジオ番組なんて聞いて泣いてると思って感動した自分に損した。」


という感情が本物ということになるんだろうか。なんだかそれも悲しい話だ。


僕は実際どちらも、今回の事件があって初めて両者の存在を知ったので、残念なことにわからない。


ただ、やっぱり真実をごまかし、嘘をつくことは倫理観に照らしても悪いことであるし、関係各者の思いや努力を無下にしたということでこれらの行為は悪いことだと思う。


ただ、仮に最初から真実だけを伝えていたら、そもそもこの怒りや悲しみの前に感動も生まれていたのだろうか。とも思ってしまう。


どこぞの食い詰め浪人のような大学の非常勤講師がつくった曲が本来日の目を見る可能性は限りなく「ゼロ」であろうし、

被災地を励まそうとして立ち上がった素人ラジオ局もそもそも電波届いてなくて聞いてないのであれば、聞いてない人が励まされてた可能性も限りなく「ゼロ」である。

もちろん、実際の作曲家はきちんとした作曲家であったわけで、名曲であるのは違いないだろうし、素人ラジオ局も聞かれていれば多いにその人の心を打ったのであるのは間違いないだろう。


でも残念なことに真実はそうではない。


真実はそのままであったら、残念なことに生み出された感動は「ゼロ」である。真実が社会にもたらした効果は「マイナス」でないにせよ「ゼロ」である。

そして、やらせがいけないことだったとしても、真実を知る瞬間までは「プラス」であったのは間違いない。


この「プラス」がもたらした影響を考えるのであれば、無碍に全否定するのもなんだか酷な話に見える。


だって、結局のところ視聴者がどう自分の中で自分の折り合いをつけているかの問題にしか過ぎないんじゃないか。


だとしたら、それをたったひとりが倫理観を曲げるだけで、その価値をプラスにも決められるのだとしたら非常にやる価値のある行為だと思う。

そしてそれをやろうとした勇気、「マイナス」になるかもしれないというリスクに対して、チャレンジし、少なくともある一点に至るまでは大いに周囲にたくさんの勇気と感動を振りまいていた、彼らに僕は惜しみない敬意を評したいと思うのでした。

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