そもそも人生なんて最初にどこの大学や会社にいくかで決まるだろ。
僕は起業家という、学歴も能力もへったくれもないビジネス無差別級というカオスなフィールドで生き抜こうとするアウトローな人種である。
だが、「人生は最初にどこの大学に行くか、どこに就職するかで最初から決まる」と強く思っている。
こんなことを書くと、きっと多くの人からコメントが寄せられる。
「そんなわけないだろ。何言ってんだ。大学も会社も関係なく成功してる人間だっていっぱいいるだろ」
「僕は大学も会社もロクなところではなかったですが、人生満足してます。」
・・・とても残念な人たちでオワコンだと思う。
故・中島らもさんの言葉に「人生はその時その時の最適解の積み重ねである」という言葉がある。
人はよく過去の選択に後悔をするけれど、そもそも人生とはその場その場で自分が最適だと思って選んだ選択肢の積み重ね、だと言うのである。
人は誰しも選択を後悔する。あの時ああしておけばよかった、こうしてよけばおかった。
でも、結局それは今となってわかることで、あの時の自分にはそれを知るすべはなく、自分はその瞬間その瞬間で最適解を選んだにすぎないのだ。
そして更に大事なことは人生は不可逆的で、再現性がないということだ。
もう片方の選択肢を選んだほうがかなりの確立で幸せになれたのかもしれない。
でも、残念なことにそれを証明することは誰にもできないのだ。
私達は結局人生に対しては実に無力で、その場その場の最適解を選ぶこと以外に抗うことはできないのだ。
そして人生の大きな分岐点となるのは今のこの国では受験だったり、就職だったりする。
憲法で人は誰しも能力に応じて教育を受ける権利があって、職業選択の自由があって、何ら自分の選択を責める存在はないのにも関わらず、
わざわざ苦労して、競争して、少しでも自分が良いと思ったところに行こうとするのは、
例え、無駄かもしれないけれど、それを諦めなかった人だけが、なりたい自分になれるかもしれない、というその瞬間の最適解を出すためでしょ。
だとしたら、そういう時にいるあなたにとって本当の価値のある言葉ってなんだろうね。
例えばさ、オリンピックでさぁこれからいよいよレース開始だって選手に何て言葉をかける?
「メダルだけがすべてじゃないよ。勝つことだけが全てじゃないよ。」
なんて言うか? 言わねぇだろ?
それを言うのは、レースでメダルが取れなかった選手に向けてだよね?
同じように、
「いい大学に行くことだけがすべてじゃないよ。」
「大企業に就職することだけがすべてじゃないよ。」
「最初の3年だけがすべてじゃないよ。」
「○○だけがすべてじゃないよ。」
こういう言葉があなたにとって、価値を持つのってそれってもう其のチャンスが終わったときじゃないの?
そうやって負けた自分を自己肯定をしたいだけなんじゃないの?
世の中には、なりたい自分になれる人より、なりたい自分になれなかった人の方が圧倒的に多い。
だから、なりたい人になれなかった人へ向けて投げかける言葉の方が支持をうけやすい。
論語にある孔子の言葉に「郷原は徳の賊なり。」って言葉がある。
郷原というのは元は田舎の善人という意味。
その田舎の善人が孔子が理想とした「徳」を持つためには、最も憎むべき敵だということ、。
あれ? 人あたりがよくて優しくて思いやりがあって・・・そんな田舎の善人がが?なんで?って思うでしょ?
でもね、そういう誰にでも、受けの良いことを言っていい人であろうとするそういうヤツが誰よりも終わってるクソなんじゃん。
世の中は残酷すぎるくらいに不公平だ。
生まれつき裕福だったり、貧乏だったり。才能があったり才能がなかったり、運がよかったり悪かったり、
でも、皆その不公平が嫌で許せないからこそ努力をする。なりたい自分に少しでも近づこうと思って、努力をする。
そうやって諦めなかった人だけが、なりたかった自分になれるんでしょ。
そういうのを、自分の自己肯定のために、善人ぶって多くの人にうけのいいことを言って、承認欲求を満たして傷を舐め合ってくすぶってることに価値なんてなにもないよ。
「人生はどこの大学にいくかで決まらないし、どこに就職して、何年働くかで決まらない。」
「○○だけがすべてじゃない。」
そうかもしれないよ。
でもそれがわかるのは、未来のあなたであって今のあなたではないし、証明のしようもない。
だとしたら今のあなたができるのは、与えられた選択肢の中で、最善の努力をすること。
受験だって就職だって、そして其の先の人生にだって、無数にやってくる選択肢に、最後の最後まで、それがすべてだって思って全力でやりぬくべきなんだ。
そしてそれを諦め続けなかった人だけが、うやって諦めなかった人だけが、なりたかった自分になれるんでしょ。