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ダメ人間過ぎたので断食して滝に打たれて瞑想したら二泊三日で人生が激変した件

前編はこちら
後編はこちら(編集中)

上記のように、二泊三日で滝に打たれて、断食をして、瞑想をしてきたわけですが、

非日常な経験をして、俗世の生活に戻る前に、いまの心情の変化について書き記して置こうと思います。

ちなみに改めて書いておくと参加したのは、下記の御嶽山の静山荘の行になります。

神主でもある橋本氏が付いて初心でも無理もない丁寧な指導をしていただけます。
宿坊 静山荘

基本的にブログは長ければ長いほど読まれないので、長文は損になるのですが、これは自分へのアウトプットとして整理がてら書き記しておく事にしましょう。物好きな人は読んでみると良いでしょう。


■そもそもなぜこの行に参加しようと思ったか?

プロフィールにもありますが、私は現在自称起業家という職業をやっております。
起業家、まぁどの領域であれ組織を率いるリーダーというのは、内容も環境も能力も違う以上、一概にこうあるべき、というのは言えないのですが、唯一つ絶対に必要なものがあるとすれば、それは「ビジョナリーである」ということでしょう。

ようするに、我々が目指すところはここであり、我々は今からここを目指すのだという、まさに方向を指し示す、それが抽象的であれ具体的であれ、そのようなものが絶対にリーダーには必要不可欠です。

当然、自らリスクを負って何かを立ち上げようという心意気があるから、当然人並み以上に大きなビジョンを持って会社をつくるわけです。

今のままでいいや、とか、まぁ誰かがなんとかするでしょ、という他力本願な気持ちでは、そもそも自分で会社を立ちあげようなどと思わないわけです。

しかしながらそのようなビッグピクチャーで、当然目指す方向が、あるいは自分の位置が遠いほど、自分の現状とのギャップというのを直視せざるを得ません。

そうするとあるときふと、自らへの猜疑心へと変わるわけです。

なんだなんだ、こんな小さなこともできていないじゃないか、お前はダメだなぁ、この程度もできてないんだったらそれじゃこれもどうせダメなんだろう?という猜疑心のドミノ倒しに駆られて行く訳です。

人は、多少部屋を掃除しなかったところで、塵やホコリがたまったところで身体に影響をうけることはありません。しかし、こんなことになるまで部屋を放置していた自分はなんてダメなんだろう、という考えは簡単に人の精神を破壊してしまいます。

そんな自己嫌悪の連鎖が、あーおれってイケテナイなぁと自らをとてつもなく苦しめていくわけです。

このような現状を打破するために自分で己の中に潜む弱い部分を打破しなければならないだろうと、その何かキッカケの一端でも掴めればと思って参加しました。


■行について。

滝に打たれる、ということについて皆様はどう思いますでしょうか?

滝行は神道と非常に密接に関わっています。

私は無宗教ゆえ、特定の宗派に思い入れや知見がある人間ではございませんが、神道という

日本に古来より存続する宗教に関しては、日本人は誰しも受け入れやすい土壌があるのではないかと思います。

まず神道の大きな特徴として、自然への畏敬の念、そして八百万の神と言われるような多神教があげられるでしょう。

自然に対し畏れ敬う感情を持つ、というのは常に台風や地震といった自然の猛威に晒されていた日本ではごくごく身近な価値観と言えるでしょう。

自然を敬い、八百万の神の存在を認めるという考え方は他の宗教と比較してとても珍しい考え方です。

キリスト教やイスラム教といったその他宗教は、基本的に一神教であり、教典や施設や場所といった人為的な何かに対して崇拝を求めます。これは特定の神や教えに対して許しや救いを求めるという行為であります。一日に何回かはこちらを向いて祈れ、右の頬をぶたれたら左の頬も差し出せ。そういう自らの弱いところをより強い存在の教え、許しにすがる宗教です。

しかしながら、神道というのは八百万の神という、前提がありますので、至る所に存在する神というのを認め、受け入れるという発想がベースとなるわけです。

例えば、滝というのは日本に限らず世界かしこにあるものでありますが、そこで滝に対して打たれるという行為に対して、そこになにか神聖なものを見出し、宗教の要素を見出したのは日本の神道のみであります。

当たり前ですが、滝というもの自体は、単に水が上から下へ流れ落ちてるだけなので、物珍しさこそあれ、しょせんシャワーや水浴び場にちょうどいいくらいのものであり、真冬に打たれようなんて頭おかしいことは考えないわけです。そこに神、自然への畏敬の念を持って、神の存在を認め、恐れ敬うという行為、それがあることによって単に滝に打たれるという行為に物理的な何かを超えた精神的な価値が生じるわけです。

つまるところ、何かの事象に対して己の想像力を持ってそこに何か畏敬な存在を認め対峙するという行為そのものがこの神道という宗教の本質と言うべきなのでしょう。


だからこそ、何か自分に行き詰りを感じたときに滝に打たれてみるというのはたいへん大きなブレイクスルーになるのでは、と思いました。

例えば何か行き詰まったときに余休暇をとるというのは大変良い選択肢です。

忙しい日常から離れてバカンスに出かけたり、スポーツでカラダを動かしてみたり、多いにストレス発散になるかと思います。

しかし、それは一時期な心の惑いを何か目の前の目新しいもので一時的に上書きしているだけに過ぎません。

だからこそ、いざ現実に戻ってきたときにああ楽しかった、よし頑張ろう!という感情以外にも、ああ、あれもやらなきゃこれもやらなきゃいけなかったなぁ。という一縷の不安が心を蝕むわけです。

今回の行で、最も大きな経験だと思ったのが、断食も滝行も瞑想も、突き詰めるとその神髄は最終的には「己」と向き合うというのにあるということでした。

己、つまるところ今の自分から、目を背けるのが、本来の休息の目的ではあるところをあえて極限まで己と向き合うことが、かえって精神的な安定につながるというのは大変意外な発見です。

今回の行では朝6時と3時からの1時間程度の滝行、そしてそれが終わったあとの1時間程度の瞑想。それ以外は何をしても構いません。
旅行としての楽しみ方をしたいのであれば、観光ガイド片手に散策してももいいですし、

あるいは普段の生活や仕事から追根究底解放されたいのであれば、すべての情報機器をシャットダウンして文明から解脱してぼーっと1日を過ごすというのも悪くありません。
逆にノートパソコンを持ち込んで普段はなかなかすすめられないタスクをばりばりまとめて片付けるというのもいいかもしれません。

僕は、多少観光を楽しみつつ、Kindleで普段は読まなかった本を読んだりしていました。

また食や夜の楽しみというのがないとわかっている分、何かに打ち込みやすいです。どうしても休暇目的だと、じゃあちょっと観光だしここに遊びにいってみようか、とか、お酒やおいしい食事が入ってしまうとそれが1日のリズム中心となって、雑念が生じてしまいます。

が、今回の行だと、それがありません。

1日を頑張って乗り切っても断食なので食事という食事はでてきませんし、夜にお酒を飲んで楽しいひとときというのも存在しません。目の前の己とに真摯に向き合うだけです。

より感覚が研ぎすまされるのを嫌でも感じます。

そしてまたこの断食というのもまた己と向き合う究極の方法であると言えるでしょう。

断食が終わったあとに食べたお粥、その臓腑に染み渡るうまさといったら何事にも代え難いものがあります。

ああ、普段当たり前のように食べていたはずのご飯とはこんなにうまいものなのか、と涙が流れそうになりました。

むろんおかゆ自体は普段食べるようなものと何一つ変わる物ではありません。ごくごく当たり前のことに、そこに何か価値を見出すかはあくまで己自身の対峙の仕方なのです。

私は大変精神が弱い人間で、怠惰な人間でございます。そのような弱い己と向きあうために、今まで様々なことに挑戦し、頓挫して、かえってダメになるそういう恥の多い人生を送って参りました。

断食という行為も、その気になれば、わざわざこのような僻地にこなくても日常生活でできることであります。しかし、ものの数分もあるけばコンビニが溢れ数多に誘惑が多い俗世においてそれはたいへんな精神力が必要とされる行為です。

こういう、非日常的な環境の力を借りてこそ実現できた断食ということではありますが、たとえわずかな期間でも食欲という煩悩を断ち切って、精神が己に打ち勝ったという、克己の精神は、たいへんな励みとなりました。

ああ、自分はついに自分の欲望をコントロールできたのだ。と

そしてその結果、普段自分が当たり前だと思っていた環境の幸せを噛み締め、そのありがたさに気がついた、これは何事にも堪え難い至上の至福でございました。

また、瞑想という行為に置いても、スマートフォンが常日頃手元にあり、意図しないにせよ情報が次から次へと舞い込んでくる現代においては、非常に得難い体験であります。

雑音や雑念から切り離され、無になる。あらゆる情報から絶たれ己と無というべき境地で向き合うというのは、たいへん考えさせられる極地であります。


このような宗教的な要素が絡む何かを不特定多数に勧めるというのは、はばかられるものではありますが、それをもってしても、たいへん有意義な経験であり、ぜひ皆様も時間があれば経験していただけたらと思います。

なお行ってみたい、と思った人はぜひ2泊3日以上で参加することをお勧めします。

実際の滝行自体はものの数分で終わってしまいますし、断食と行っても1泊2日では、正味半日程度なので体験ツアーの域をでないと思います。

そのあたり2泊3日あたりでいくと、繰り返すという行為の中においてその真理が見えてきます。さらに連続を重ねるとより真理が見えてくることでしょう。

私は非日常空間で、断食と滝行と瞑想を組み合わせる事で、己と真摯に向き合うことで、強い自分を手に入れることができたと思っています。これはぜひ、周期の中に織り込みたいと考えております。

究極的には己との対話を目指す以上、新しい環境ではなく、一度経験したことがある環境という目新しさがない中で自分に向き合う事で、より己の真理に触れることができるのではないのでしょうか。次回は3ヶ月後、3泊4日くらいで参加する予定です。興味がある方は一緒にいきましょう。


と、私は今回の行を通じてこのような、考えに達しましたが、結局は己との対話であるので、何を感じるかは人それぞれでしょう。

自然の中で過ごすことによる癒しであったり、人知を超えたスピリチュアルなものの存在から力を蓄えたり、あるいは悟りであったり、人によりけりです。

でも、それでいいと思います。結局のところもそれすらも己次第ということです。

世界も結局は己というフィルターを通してしか把握することはできません。

世界か周囲の環境を変えることは、そう簡単にできることではありませんが、己を変えることは決して難しいことではありません。


ああ、自分はなんて不幸せなのだろう、なんてダメなんだろう。なんて運が悪いんだろう。

果たしてそうでしょうか? 

己というフィルターを変えるだけで、世界はまったく違った景色になります。

当たり前のことですが、そのことに気がつくのはたいへん難しいです。

「本当の災いは外側にはない、内側にこそ真の災いがある。」


神道つながりで最近、僕が読んだ本の中で、良いなと思ったマンガの言葉を書いておきます。




これ、いわゆる18禁のアダルトマンガですので注意してくださいネ。

この場に載せるのが少し躊躇しましたが、それでもこういう類のマンガの中にあってなかなか考えさせられるマンガなので載せる事にします。

ストーリー的には、半人前の美少女女神が神になる修行をするために1年間人間界で人間と同棲して守護神の修行をしなければならないのですが、その選んでしまった人間がエロいことばっか考えている男だった、っていう「まーたラノベか!」、っていうような設定なんですが、ラノベと違うのは、いかんせん18禁なので、これがばっちりヤリまくります。

まぁ、常識的に考えて美少女で自分の言う事を何でも聞いてくれそうなな女の子がいたら、

「ば、バカおまえこんなとこで着替えるなよっ////」なんてまどろっこしいやりとりせずに、

男だったらやっちゃいますよね。逆にラノベの設定がおかしいです。

でも、そういう人間ならではの快楽や背徳感に溺れたりする中で、主人公が自分の弱さに気がつき、なんとか強くなろうともがき苦しんで、そういう限りなく人間としてウェットな部分に向き合って、主人公と女神が最後にたどり着く言葉がこの言葉です。良い言葉ですね。

僕もこうして終わってまとめを書いている間に少しずつ俗世に戻りつつあります。そのうちまたいつもの同じようなことになるやに思います。

それでも、そのきっかけの一端、ほんのわずかなキッカケにでも触れる事ができた、その噛み締めてこれからも進んで行きたいと思います。