背徳に陶酔して愉悦に至る病。そして。

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うわこいという漫画、これもまた成人向けなんだけど、久しくゾクゾクして感傷的な気分になった。


実はひっそりと実写映画化もされているし、見る人によってはかなり文学的な側面を持った作品だと思う。1話の構成はベタでも美しかった。3巻目以降はちょっと間延び感や非現実感があって没入できない。あの夏までで終わっておいた方が、どこまでも広がる無限の闇が見えて、良い終わり方だった。と思う。




四半世紀も活きていると、自分の中に眠る感情のうち、どういうものにアドレナリンが最も掻き立てられるか見えてくる。


周りに引きづられるように引き起こされるわけではなく、自分だけが心の中で血液がどくどくの鳴り響き、アドレナリンが体中に行き渡って、咆哮を感じる、生きているという当たり前のこと、生の気配を感じて、思わず唸り声をあげてしまいそうな、そういうエキゾチックな快楽。



人によっては、それはマラソンのゴールテープを切ったような、なにかを成し遂げた達成感なのかもしれない。

でも、自分にとってそれは背徳感であるように思う。


罪を罪として受け入れない、それを受け入れつつ肯理してしまう自分、背徳に陶酔して愉悦に至る自分がいる。


理解されないかもしれないが、世の中にはそういう人種がたしかに存在する。



人はみなまるで動物のように本能の思うままに生きたいと思う側面と、人としてこうあるべきという正しい方向に自らを律そうとする人間としての側面の2つの側面が備わっている

人それぞれが持つ多種多様な価値観、自分はこうしたい、こうありたい、という固有の判断基準それを社会や規範に照らし合わせ、あるべき姿と自分の本能とのせめぎあいで調整する。人が持つ個性とはそのような価値観が連なって、できている。

そう、それは例えるならまるで積み木のようである。

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その判断基準となる固有の価値観は、それぞれ人によりけりだが、それがその他の価値観を崩壊させうることがないように、こうあるべき、というあるべき姿になろうとして、壊れないように崩れないように、価値観は積まれて形成されていく。

金銭観、恋愛観、宗教観、

ごくごくありふれた価値観から言語化できないものまで、そういう価値観が連なって人という人格が形成される。


でも、きちんと積まれているはずの積み木の大きさは、実は一様ではなくて、それら他を凌駕する、大きさのものが存在する。恐ろしく大きく、ふびつな、そんな積み木が、心の中に眠っている。

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普段は、眠っていて、ほんの何かの琴線に触れて力が働いてしまった時に、それはまるでテコのように他の価値観を崩壊させる、そういう価値観が人には眠っている。

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どうしても勉強しなければ進退に関わるという試験の前夜、最後のチャンスだと言うときに、マンガを読みふけってしまった経験はないだろうか?

しかもそういうマンガに限って、別に何の目新しさもない昔から家においてあるマンガだったりする。そんな何の刺激も目新しさもないマンガを爛々と読みふけって一夜を過ごしてしまう。


社会経済学では人は皆経済合理性に基づいて、動くものとされている。


家にあるマンガはいつでも読めるものだから、一日我慢して試験が終わったあとそれからマンガを時間を気にする事無く自由に読めば良い。試験も合格して、漫画も好きなだけ読める。誰にでもわかるシンプルな判断だ。


そう。合理的なことはわかっていても、やめられない。他の価値観の判断では考えられない、破滅的な選択肢をとってしまう、自分がいる。でも、その瞬間は、人間としての理性と快楽にふける動物的な本能の摩擦で生じる、
背徳感がアドレナリンを放出させる、そんな、破滅的な悦びが身体が全身を支配している



わかっていてもやめられない、ページをめくるのをとめて、机に戻らないといけない、でも、今このページをまくるのをやめてしまったら、すべてが一気に崩壊してしまいそうで、目を逸らせない。


自分の本能と社会性との狭間での摩擦で引き起こされる背徳感のもたらす喜びに逆らえない。

かつてないほどに最高に脳内がすみわたっていて、それしか世界が見えなくて、やってしまった!という胸に突き刺さるような後悔と、胸の奥底から、ドクドクと血が沸き起こり、生きている、っていう実感がわいてくる。


もちろん、これは単なる一例に過ぎなくて、


そんな背徳の愉悦に引きずり込まれる、何かがあなたや世界には散らばっていて、人によっては、それはそもそもの背徳感の語源である、社会通念に反する、姦通による背徳なのかもしれないし、あるいは反社会的行為とののせめぎあいだったりするのかもしれない。


社会的地位もあり、経済的にも何ら不自由のない人が、くだらない盗撮行為に興じ、全てを失ったり、家や身分もすべてをかなぐり捨てて燃えるような禁断の愛に駆られて駆け落ちをしたり、

あるいはそのようなわかりやすい形でなかったとしても、誰が見ても家庭的だったはずの人が人の目が届かない家では実は暴力をふるっていたり、薬物やアルコールでにおぼれてしまったり、ギャンブルで借金を背負ってしまったり、ごくごく考えれば決して理解しがたい判断がいびつな価値観の積み木によって、引きおこされる、一歩間違えば全ての積み木を崩壊させる、そしてその積み木を崩れる寸前まで押したり押さなかったり、あるいはそれに足を掛けて、


そういうところに、生としてのリアルを感じて、しまう人種が世の中にはいて、自分もそんな何かの背徳感に縛られていて、多分その原罪から逃げられないのだろう。

今はまだ、その落差が少なくて、ただダメージが少ないだけで、最後には破滅するか、破滅する前に生き延びるか、だけで、

どこまで言っても、そのフレームワークから、抜け出せない。

こうすれば破滅だろ、とわかっていても、その深淵の淵にどこまでも沈んでいきそうな、その感覚が何事にも代えがたい、愉悦を引き起こして、今までは、そのところで、いつかどこかで、足を踏み外して、積み木を崩壊させる。

でも、その破滅的な背徳の愉悦が、どうしようもなくアドレナリンを分泌させて、生きてる、って実感が湧いてしまう。


笑っちゃうよね。