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最貧困女子1人救えないで、何が世界が尊敬する国ニッポンなんだ。

最近話題になっていた再貧困女子を読んだ。

最貧困女子
最貧困女子
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幻冬舎 (2014-11-07)
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結論から言うと、僕は電車で本を読みながら、周りの目も気にならないくらいにボロボロ涙を流して泣いてしまった。


僕は学生時代にいわゆる出会い系サイトに関する仕事をしていたことがあった、そしてその世界の中で繰り広げられていたやりとりはまさにこの本に書いている内容と相違なかった。無数に生まれては消えていくメッセージの中でこの話が決して嘘ではないことを僕は知ってしまっている。



僕たちは同じ世界に住んでいるが、見ている世界は皆違う。


僕は進学校を卒業して、東京にでてきて良い私立大学を卒業して、普通に大企業に就職して、出世して役職をもらうか、あるいはやりたいことがあるから自分で事業を起こして、いずれ家庭をもって、そういう価値観が当たり前のコミュニティにいて。

僕のFacebookには、誰もが名前を知っている大企業で働く友人たちの「結婚しました!」「子供が生まれました!」「おめでとう!」という祝辞が溢れかえり、

あるいは、今をときめく名うての起業家たちが「まけてられないぞ!」と鼻息を荒らげる。そんな未来志向のコメントがいつも溢れかえり、


そこには、暴力とネグレクトの果てに、どうしようもないくらいに追い込まれ、自らの性を売り物にして、死ぬまで抜け出せることのない永遠の煉獄の底に沈んでいる光景はない。



僕は、たまたま恵まれた価値観のコミュニティに足を突っ込めただけだ。


たまに僕は本当はこんなところにいる価値がない人間なんじゃないかという自責の念にかられる。


詳しくは書かないが自分自身の家庭環境もひどいのだ。


僕は、ただ目を背けてごまかしてきただけだ。


僕は、たまたま運がよかった。人より少しだけ頭がよくて、環境に恵まれていて、破綻しない方向に舵取りを切れるチャンスと才覚があった。回避できる図太いメンタルと身体があった。

でも、自分がいつ同じ境遇に落ちていくかもわからない、そんな闇は僕の精神をいつも蝕むし、自分だけならまだしも、事業に関わってくれるすべてのステークホルダーを不幸せにはしたくないし、そして何より僕自身だってこの本に出てくる貧困層と大差ない生活水準なのだ。


それだけにこの本を読んでいるうちに、本当に僕の中で贖罪の気持ちとともに、なんとかしないといけないけれど何もできない自分と、当事者意識が相まって、僕は、涙が止まらなかった。



筆者の鈴木大介氏のあとがきに、でてくる言葉、


「本音を言えばルポライターとしての僕の心情は、もう限界だ。」



その言葉の重さがズシンと響くのだ。どんなに近くまで迫って見ても、何一つ変わらない、変えることのない、自分ひとりの力だけではどうにもならない諦め、そして無力感、そのすべてがこの一行からひしひしと伝わってくる。


この本は本当に重たい。生半可なきもちで読むのをオススメしない。



日本は平和で、豊かで、世界の国々が尊敬する、あこがれの国、ニッポン。


そう信じていた、我々、少なくともこうやってネットを自由に使いこなせるリテラシーのある世界に生きている我々の、現実をへし折ってくれる。


そしてその重すぎる現実は読者に語りかける。


たった、たった一人、少女を救えなくて、何が世界が尊敬する国ニッポンなんだ、と。



本中に出てくる最貧困女子は本当に悲惨だ。


我々はこの国には社会保障というセーフティネットがあり、漠然と国が、政府が最悪なんとかしてくれるだろう、そしてそれを利用しないのは自己責任。と信じている。


だが、実態はそうではない。連鎖する貧困と虐待で家族の縁が廃れ、地域の共同体は無力で、飛び出さざるを得ず、そしてまた書類やら手続きやら何やらが必要な事務的で複雑なお役所的な社会制度。


誰も彼女たちを救えないのだ。


社会から爪弾きにされた、彼女たちはしかるべくしてセックスワークに引き込まれ、そしてそこでもまた爪弾きにされた、最貧困女子は、永遠に救われようもない、不可視化された凄惨な地獄に叩き込まれる。


それらはすべて自己責任の名のもとに社会から正当化される。






家族の縁も、地域の縁も、行政という制度の縁もすべてから切り離され社会から不可視化された彼女たちを救う方法があるのだとしたらそれは一体何なのだろうか。


前の記事では、僕はその選択肢の一つとしてイスラム教という宗教の可能性を提示した。


日本の貧困層を救ってくれるのはイスラームしかないって確信した。 - 拝神



この終わりのない世界の唯一の救いは、イスラム教、イスラーム的精神ではないのかと。


もう、今のこの国と、そして今のままのこの国の価値観では社会は、救えない。

それはみんなも薄々気がついている。だけれどその明確な答えを知らない。

あなたの代わりに断言しよう。その最後の一欠片がイスラムであることは間違いないのだ。



イスラームがその他の宗教と大きく違うのは、共同体の相互扶助に重きをおいていることだ。これは他の宗教と決定的に異なる点である。


傍から見ると、意味不明で、不条理に見える、イスラム教が定めている教義もなぜ、それがあるかを分析すると、すべてが共同体のために帰着していることがわかる。


例えば、イスラムの教義である六信五行の一つに喜捨(ザカート)というのがある。

自らの収入の幾分、例えば金銭の給料なら2.5%を共同体のために、支払うというものだ。そして、これとは別にサダカという自由意思による自由喜捨もある。

ここだけだと、我々が考えている、寄付や慈善事業と何が違うんだ?と、いう疑問が湧いてくる。

募金だの慈善活動なんだの聞くと、ウェブ界隈の性根のひねくれた君たちの次の言葉はこうだ。


「中抜きガー、団体員の給料ガー、情報開示ガー」
「アレ〜家はこんな豪邸なのに募金はこれくらいの額しかしないんですね(ニヤニヤ」
「貧乏は甘え。情弱乙。他にも苦労している人はたくさんいるんでしょ。俺はもっと低い給料で頑張ってる。」
「募金の名を借りた売名行為。本当にかわいそうだと思うなら誰にも言わず募金しろ。」



本当に醜く、浅ましい精神だ。反吐がでる。



君たちは慈愛の精神でお金を出しているのではなく単に自分より下の底辺層にお金を恵んでいる自分に酔っているだけだろう。


貧乏人に金を恵んでやる優越感に浸っているだけ。だからこそ自分の金が効率よく使われるか、自分がもっとも気持ちよくなれるかことだけしか見ていない。


思いついたかのように、募金したかと思えば、アラ探し。権利の主張。そしてネットで手に入れた知識を振りかざして、知らないものをバカにして満足してるだけ。


君たちにとっては貧困はコンテンツ。自分の社会上の優位性を確認するためのマウンティング行為。



そこには救いはない。あるのは憐れみと惨めさだけ。都合の良いときだけのサービスとしての慈善。



イスラム教における、喜捨(ザカート)が画期的なのは、


「今日のあなたに財産を成すようになったのは、全て神(アッラー)のおかげなのだから、同様に帰依する者たちへ、分け与えよう。」という理念のもとで、慈愛を唯一の絶対神のアッラーとの個人の関係において崇拝行為の義務にしたこと。


勘違いしては行けないのがこの、ザカートは、皆が思い浮かべる教団や教祖には収める寄進やお布施とは違うところだ。



このお金はモスクの建設などにすら使うことすら許されてない。



ザカートは、あなた自身が自らの意思で、自らの周りにいる困っている相手に直接提供するのだ。


貧困者、被災者、隣人、債務者etc・・・


あなたが、周りで困ったとしている人に直接渡す。そこには君たちが大嫌いな募金のような団体に中抜される必要はないし、あなたが目の前の貧困に目を背ける必要もない。


ザカートを施すことで自らの財産に対するどん欲な気持ちを洗い清め、貧しい人に対する慈悲の心をが生まれる。ザカートを受けることはその人の心から金持ちに対する羨望と反感の情を和らげ、心の中に親愛の情を生む。ザカートを払うことは、慈愛でもなく、至高なるアッラーへの務めなので、ザカートを与えた相手に何かしてやったように考えてはいけない。

むしろ自分のザカートを受け取る相手がいてくれることに感謝しなくてはならない。貧しい者がザカートを受け取るのは正当な権利であり、それを与えることは裕福な者の義務だから。


扶助を受け取ってくれる相手がいることに感謝する、


この発想は単なる慈善や慈愛の精神ではできないと思う。


なぜならあなたが、お金を払ったという行為自体に対して、それが多いか少ないか、効率的か、非効率化、自分にとって有益か、不利益か、


そんなことは考えたらキリがない。僕達が生きる経済社会において、それは自分が損する行為でしかないのだから。



だとしたら、その自らの行為自体に価値をもたせた方がずっと気持ちが楽だ。


それが神対自分との関係で、神の下において、と考える。貰う人もあなたとの関係において貸し借りの関係で考えるより、神の存在があった方がずっと救われる。


自由喜捨のサダカの方もよくできている。すればするほど神に喜ばれるのだから、たくさんした方がいい。だからイスラム圏のお金持ちはバンバン社会のためにサダカをする。もちろんお金じゃないのもサダカだ。あなた、困っている人に寄り添って話を聞いてあげることも立派なサダカとみなされる。

ただ、サダカで寄付された学校などには寄進者の名前が刻まれることはない。これは自分の行為を見せびらかしたり高慢になったりすることもまた神の名において禁じられているからだ。


本当によくできている。


その他にも六信五行にでてくる有名な1日5回の礼拝や年1月の断食(ラマダン)も、何のためにそんな面倒で厳しいことをしないといけないのか? と傍から見ると思うがすべては共同体のために帰着し設計されていることに感心する。


1日に5回の礼拝や金曜日の礼拝も、傍から見るわずらわしい不条理そうに見える仕組みでありそうだが、利害関係なく一定の周期で集まるという共同体成立の基本的な要素である。


なんだかんだで定期的に顔を合わせてれば、其の人が抱えている悩みやトラブルを自分一人で抱え込む必要がなくなるし、何かおかしなことがあれば周りが気づくこともできる。

かつて日本では、地域のコミュニティがその役割を果たしていたが、隣人が誰かもわからないような現代の日本においては、いまさら復活も無理だろう。


そして何より、自分に何のメリットがあって、わざわざ自分の時間を割いてまで、集まらないと行けないのか?という根本的な問いに対して、

今の日本の社会ではそれぞれの利害関係が交錯して行き詰まり、答えが出せない。


会社の飲み会ですらうかつに誘ったらブラック企業、パワハラ・セクハラの時代なのだ。


その時に最も平等で合理性が高いのは礼拝、神のため、だろう。


神がそういうふうに決めたのだから、集まって祈る。以上。変更不可。それでおしまいだ。


1ヶ月のラマダンもよく考えられている。


貧富関係なく、誰しもが皆、年に一月、日中日が沈むまで断食をする。


当たり前だが、日中の断食は、とても苦しいが、そう簡単に人間は倒れたり、死んだりしない。

誰だってめちゃくちゃ苦しい、でも、その苦しみが、飢えるという苦しみなのだ。

ラマダンは、そうした苦しみを擬似的に貧富の差を超えてすべての人が共通して経験することで、慈善や慈愛の精神を養い、再確認することができるし、また、その日1日みんなで支えあって断食したという実体験は、共同体の達成感と連帯感を高める。もちろん運動や仕事でも同じ苦労体験の共通はできるかもしれないが、断食であれば老若男女、貧富の差なく誰しもに手軽に平等に体感できる。超合理的。

だから断食というと仏教文化の日本人は修行のイメージが強いが、イスラム圏ではラマダンの期間はお祭りなのだ。日が沈めば夜は家族やみんなで集まってまるでお祭りのように楽しく過ごす。そして、至る所で貧しい人たちに向けてお腹いっぱいになるまで料理が振る舞われる。それがラマダン。

もちろんこれらは、体調が悪かったりするときや緊急時はスキップできる、ということもきちんとコーランに書いてあるし、誘惑にまけてうっかり食べちゃったときはその分1日延長するか、あるいは貧しい人にご飯をおごってあげよう、という決まりもしっかりというかちゃっかりというか書いてある。

もちろん、これも神の名のもとに行われるから実現可能であって、甲子園の球児ですら、炎天下にボールを投げててかわいそう。などと一方的な正義感が振りかざされる日本で、老若男女誰しもが、日中に飯も水も食ってはいけない、などとしたらそれは、それこそ2ちゃんねるやはてなで大炎上必須だ。もちろん飲食業界も猛反発だろう。


ブラック企業ガー、労働基準法ガー、個人の自由ガー、


でも、いったい誰が今の日本で、100円マック1つ食えず苦しんでいる最貧困女子の気持ちを同じ目線にたって考えられるのだろう、自己責任と切って捨てず、自分も同じ苦しみを分かち合えることができるのだろう?やっぱりこれも神がそう決めたから。が最も合理的なんだと思う。



「たった一人少女を救えなくて、何が世界が尊敬する国ニッポンなんだ」


誰ともなく、無言で訴えかける、その声にすらならない最貧困女子の小さな叫びは、本当に重たい。


そしてそれに拍車をかける残酷な事実は、この国は、決して女性がこんなことをしなくてはならないくらいに、貧しい国ではないという事実だ


本にでてくる年収100万のプア充女子や最貧困女子が生きているのに必死の一方で、


この国の、個人の金融資産は合計1433兆円、非金融資産は1027兆円日本人1人あたり平均に換算すると純資産は、「世界一」なのだ。そう、この国は世界で最も経済的に豊かな国民なのだ。


それなのにこの救いのなさはいったいなんなんだろう?


間違っているのは僕だろうか? 彼女たちだろうか? それとも今のこの国の社会だろうか?


すべての縁から切り離され、行く果てもなく追い込まれた最貧困女子がすべてを失い疲労困憊し行き詰まった時に、そこに手を差し伸べるのは、彼女たちを性の道具としか見てない輩か、セックスワークに引きずり込んで金儲けに利用しようとする輩か、そんなのしか存在しない。それがこの国の現実なのだとしたら、



おわってるのは、この国だろう。



21世紀も15年かは過ぎようとしている高度な科学経済社会の日本の今日日、



古臭い、宗教や神なんか信じちゃうのって、バカみたいって、思う?



でも、自己責任の名のもとに打ち崩される、この国の声にならない貧困の苦しみを他に救う術があるのだろうか?


なんでもない施しひとつでも、その人を思いやり、苦しみを自分のものにできる利害関係を超えて与えられれば、其の人にとってどんな意味をもつだろう。


その救いは社会制度や経済的合理性では実現できない。


「神様なんて、この世にいない。」


幾度と無く、そう信じざるをえない境遇に叩きこまれた彼女たちに、ただ利害関係を超えて、手を差し伸べる動機、その存在があるのだとしたら、



それは、僕達にとっても彼女たちにとってもきっと神なんだと思う。