まだ、イスラムを知らないで消耗してるの?

フランスで、風刺漫画を書いていたジャーナリストがイスラム過激派のテロリズムによって殺されるという痛ましい事件が起きたと思っていた矢先に、蚊帳の外だとのんきに傍観していた日本を相手にイスラム国が日本人の拉致事件を起こすなど、事態は一気に火中の栗となった。

折しも、イスラム国の台頭と相まって、イスラム国憎しの機運が高まる一方で、日本でも今まであまりスポットのあたらなかったイスラム教という宗教そのものにも注目が集まるようになった。イスラム国もややこしい名前を使っているものだ。

少し前からの記事を見てもらえばわかるけれど、最近このブログ主はイスラム教に傾倒している。

というか日本をこれから救うにはイスラム教しかないだろうなと確信さえしている。

が、イスラム教の原理的な考え方がというのがそのまま日本で受け入れられるとは思っていない。どんな考え方でも原理主義的な考え方は危険なのだ。

それがたまたま政治的に不安定なイスラム圏で多く頻発しているだけだと思う。




日本というのは元々、シルクロードの終着駅と称されたくらいに文化の伝承の最終地点であると言われていた。

極東の島国という環境も相まって、大陸からやってきた文化や発想の最後の解釈者として、日本は自国の環境に合わせて独自の解釈で改造し、昇華させた。

例えば、仏教の本質である、現世利益に固執しない「解脱」的な考え方は、日本人の禁欲的で質素剛健な価値観形成に大いに影響を与えたし、キリスト教が説く「隣人愛」の精神は一時は弾圧の対象とされたものの武士道精神と相まって、明治時代以降においてはクリスチャンの新渡戸稲造が「武士道」を著するなど、日本が持つ自己犠牲の美学に大きく影響を与えた。


宗教としての世界三大宗教の成立時期を見ると、仏教が紀元前5世紀に生まれ、日本に入ってきたのが6世紀
キリスト教が1世紀に成立し、日本に入ってきたのが16世紀とそれぞれ誕生から日本までの伝承までに約1000年〜1500年程度差があることを考えると、7世紀に生まれたイスラム教がまさに今千数百年年あまりの時を経て日本という国に大きな影響を及ぼすということは決して不思議なことではない。仏教やキリスト教の鑑真やらザビエルやらのように誰かが海を越えて日本に持ってきて布教したとかいうのはみな教科書の日本の歴史で習うけれど、イスラム教は知らないはずだ。


そしてイスラム教の本質である「共同体」の概念は、今まさに日本が失い学ぶべきところがおおいにある。

イスラム教というと斬首や自爆を辞さないほどの厳格なイメージが先行してしまうが、これもまた偏見や思い込みによる悪しき無理解である。


例えば、イスラム教の入信方法なんてどうやって入ると思うだろうか?

坊主にして出家?、割礼して洗礼? あまつさえ大金を払って、新聞を購読しろだとか、本を買えとか、仏壇を買えとか?

答えは、イスラム教徒二人以上の前で、「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒です。」とアラビア語で言うだけ。ちなみにこれ、Twitterでつぶやいてもオッケー(らしい)。


ほんとにこれだけw


入信にあたってなんか坊主になるとか、洗礼しないといけないとか、知識がないといけないとかもない。

だからあなたも そうだ、京都行こう的な感じで、そうだ、教徒なろう、っていうくらいでなれちゃう超ラフな宗教なのだ。

そして軽いノリで入信しても、誰か教祖とかえらい人がいてお前は修行が足りないからこの仏壇を買いなさいとか、振り込み用紙があって毎月ここの口座に入金してください、とかそういうの、ない。


そもそも神は絶対なんだから、人間ごときが神をわかったフリをして勝手にゴチャゴチャ決めたり言ったりすることすらおかしいでしょ。コーランに全部書いてあるからそれ読んでよ。っていうスタンス。

なんで、よく言われがちな1日5回祈れとか豚肉食べてはいけないとか、酒を飲むなとかも、言ってしまえば究極個人のスタンス。
祈るか祈らないか、食うか食わないか、飲むか飲まないか、というのは自分と神の間で決めることであって、外野がとやかく言うものでもない。


なのでこちらの感覚からすると、日本人はイスラムって1日5回祈ったり、酒も豚も食えなくて大変そうとか思ってるけど、イスラム教徒からすると、毎朝毎朝民族衣装みたいなスーツ着込んで、満員電車にのってやりがいなどという誰かの価値観に翻弄され下手すりや死ぬまで働いて過労死してる日本人とかの方が大変そうだと思われてる。

とまあこんな感じでイスラム教というのは必ずしも厳密に規定されているわけではない。よって解釈がわりとルーズな一面もある。文化によって違う。

一般的にメッカを有するサウジアラビアに近いほどイスラムに厳格であると言われている。



わかりやすく、例えばよく話題になりがちな女性の衣装で言うと、サウジアラビアとかではブルカと言ってこんな感じで女性をすっぽり覆ってるけど、

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インドネシアとかだとヒジャブを巻いてるだけというのがあるね。
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これは女性は服装を制限しろ!などとコーランに書いているわけでもなく、

「屋外行くときは他の男性があなたの奥さんとか娘をエロい目線でみていろいろ面倒なことになるから、女性は一番美しいところを見えないように隠しとけよ。」くらいにしか書いてないので其の解釈の違い。

日本でももともとかつては貞操観念を大事にして、清楚でなでやかな女性を雅とするやまとなでしこという文化もあり、これは決して相容れない価値観ではない。今だって、一部の界隈では、黒髪・処女信仰は強くあるし、日本でも公の場で求められる正装は簡素質素なものだ。その他にもイスラム教で従うべきとされている倫理観や生活規範は、日本人が持つ高潔な倫理的徳と非常に共通するところがあって、東京代々木にある東京ジャーミーの設立者であり、イスラム世界への対日感情の源流に大きく貢献したアブデュルレント・イブラハム氏はその著書の中で「日本人は改宗すれば完璧なムスリム(イスラム教信者の名称)になれる。」との言葉を残しているくらいに、実は相性のいい宗教だったりする。

砂漠の過酷な自然環境で生まれた宗教と台風や地震のような過酷な自然災害が多い国で生まれた宗教とでは根底では通じているものがあるのかなと、思う。

なので、結論から言うと、

僕は「極東の島国である日本では最も緩いイスラム教が成り立つのではなかろうか。そして最後の三大宗教であるイスラムの概念を吸収したとき日本という国はより成熟し完成へと近づくのでではないか。」

という仮説を考えている。

そういう目でイスラムの良いところを見てみると今の日本の社会が抱えている問題が解決される可能性があることに気がつく。

例えば、酒やギャンブルや高金利の借金、性の奔放さを禁ずるイスラムの教えは、この国で金儲けのために際限なく増長する人間の欲望に楔を打ち込むものであるし、

KAROUSHIに代表されるブラック企業の問題も、仕事よりも礼拝が優先されるイスラムの教えであれば、誰かがつくった価値観のために身を滅ぼすなんてことが起きる前に人として正しい生き方にもどることができる。

また、イスラムの喜捨の文化は日本が「自己責任」の名のもとに失った篤志や慈善を再びよびおこさせるものである。
いったいいつからこの国では見返りが無ければお金を出せなくなってしまったのだろうか。

そして、年に1ヶ月の間、日中の断食をするラマダンの文化は、貧富の差を超えた共同体としての一体感、貧困層への共感を呼び起こし共有できる、最もわかりやすく合理的な方法である。


このようによくよく見てみるとイスラムの教えには今の日本が失い、必要としている教えが多いのだ。



日本は近代化の過程で宗教というのを切り捨てた。

宗教の多くは資本主義を採用する国家の経済的な成長にとって阻害となるからだ。

また、あらゆる謎や問題が近代科学がテクノロジーの発展によって解決されていく。

だがどんなに社会や技術が成熟しようと、現代社会はあなたがなぜ生きるのか、どのように生きるのかという問いには決して答えてくれない。

今の日本の社会が、あなたにつき返すその答えは「自己責任」だ。

そんな社会で自分なりの生きる意味を見つけられる人はとても幸せだと思う。

やりがいがあり夢中になれる仕事、かけがえのない最愛の家族、固い絆で結ばれた仲間、
飽くなき学問への探究心、時間を忘れて没頭できる趣味・・・

何か一つでも自分はこのために生きている、このためには死ねるといえるほどの何かがあるのならあなたの人生は幸せだ。

けれども、世の中で必ずしもすべての人が明確に生きる意味を見つけられるわけではない。

仏経済学者のトマ・ピケティは「21世紀の資本」で資本主義は自動的に、恣意的で持続不可能な格差を生み出すと断じた。

そして事実今、この国の社会はあらゆる側面で格差を広げる方向に伸長しつつある。

この国では、金融資産を持たないゼロ世帯が3割を超えた。

国民の6人に1人が貧困に苦しみ、6割が生活が苦しいと感じている。

生きているよか死んだ方がまだマシだと、毎年3万人が自らの選択で死を選び、

今年、雇用環境が不安定な非正規雇用者数は今年過去最高の2000万人を超えた。

毎年2000人以上もの人が過酷な労働環境のもとで、過労死で命を落とし、

経済力のない人間は、結婚相手になんてできないよねという論調がまかり通り

非正規雇用者数の8割が結婚もできず、生物としての基本的な営みである家庭すらつくることもできず少子高齢化の道を一直線。

数十年後には人口の6割が老人となり、今の20代は数千万円以上の年金払い損どころか社会保障そのものの破綻が確実。



その国で、あなたに投げかけられる言葉は何か?


「努力しなかったお前が悪い。」

「やればできる。」

「お金を持ってないお前が悪い。」

「みんなだって苦労している。甘えるな。」

「努力しなかったお前の「自己責任」だろ。」


社会的な地位も、資本もないあなたに待ち受ける「自己責任」の現実はどうしようもなく悲惨だ。

そしてこの国には経済的な再起も、社会的な再起も与えられるチャンスは減りつつある。

教えて欲しい。これから先のあなたにとっての人生とはいったい何なのか。

そんな時にあなたにとって最も必要なのは確固たる人生の指針、生きる意味ではないのだろうか?。

それは、資本でも、地位でも、環境によっても決められることのない。ただ自らの意思によってのみ達成できうる、信仰という第三の価値基準なのではないか。

信仰という第三軸の価値観があることによって、あなたは確固たる軸を手に入れる。

そしてそれは、宗教の名をかぶった銭ケバたちの浅ましい下賤な宗教や、資本に踊らされた一時の流行り廃りや誰かがつくりあげた価値観でもない。

それは1400年以上もの間ただのひとつも変わることなく受け継がれてきた何十億人以上の人生の支えとなっている不動の哲学である。

果たして誰かが自らの利益のためにつくった評価軸に翻弄され、苦しみながらすごす、そんな人生を目指しながら生きようとしてきた日本の我々は、一度新しい生き方を見直すときに来たのではないのだろうか? そのように僕は考え始めている。


ということで最後に、僕が敬愛するあるブロガーの言葉を借りてこう締めたい。



「まだ、イスラムを知らないで消耗してるの?」



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