ホモ・サピエンスは5億年ボタンの夢を見るか

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深夜のオフィスで来訪者と面白い談義になりひさしぶりに知的興奮を覚えてしまったので、未来に想いを馳せた明くる日の夜の忘備録として残しておく。ここにあるのは、もしかしたら知識不足な僕が知らないだけで。何か映画とか作品で取り上げられてるような世界であったり、アカデミック的な点では当たり前のようなことなのかもしれないけれど、まるで自分で公式を導いたかのようなたどり着いた思考のプロセスのその一晩の思い出が、僕はとてつもなく好きだったのだ。




「あらゆるものがクラウド化した社会でそれでも残る価値があるとしたらそれはいったいなんだろう?」

最近、APPLE MUSICがリリースされ、音楽を所有するという定義が変わった。

たった月に10ドルにもみたない費用で、何千万曲という曲がいつでも好きなときに好きなだけ聞けるようになってしまった。端的にいうと、かつて何千枚と大金をかけてCDを買っていた人と、そうでない人の差が、限りなくフラットになった、とも言える。

このようなのを例えていうならクラウドフラット化、とでもいうべきだろうか?

ものを所有することから、限りなく低い金額で必要に応じていつでも使うことができる、そこに金銭という資本により生まれる所有という価値は消える。

最近、これからの未来には「所有する」という概念が希薄化していくのではないだろうか? と思うことが増えてきた。ここ最近のミニマリストという言葉の流行は決してそれら時代背景と関係ないものではないと思う。

apple musicに代表される音楽だけでなく、すでに映画や、本やゲームといったコンテンツはクラウドフラット化してきたし、

リアルな実生活においても東京という限りなく世界で精錬された都市にいると所有するという概念がだんだん薄れて消えているのではないか? ということを感じることがある。

例えば東京であれば自動車の所有とっても、シェアカーやタクシー、あるいは電車のような交通機関を組み合わせればなんら不便さを感じることはない。

また、張り巡らされた24時間のコンビニエンスストア網はいつでも我々に生鮮食品や飲料を提供し、自宅には大掛かりな備蓄用倉庫を持つ必要を消失させた。

巷にあふれる外食産業は、我々の自宅に高機能な厨房や料理人を抱える必要をなくした。

どんなにお金があっても上記のものがまったく使えない生活に価値があるかというとそこには何もないことに気がつくはずだ。

モノを所有するという価値は減退し、その一報で発生してきたのが「アクセス」による価値だ。


例えば我々はGoogleに価値を感じている、Googleに普段のメールを保管し、スケジュールを保管し、写真を保管し、データを保管し、地図を保管し、何かを「預けている」と思っている。

しかし、Googleはなにか我々から預けけられた具体的な物を何ひとつ持ってさえいないのだ。

我々が持っていると認識しているただのデジタルデータの集まりでしかない。

我々は何ひとつとさえ持っていないのだ。

ありえない話だか、Googleがある日突然会社を畳む、今までもらったものを返すとなったら、それで返してもらうものは何一つないのだ。我々はIDとPWでGoogleの中にあるデジタルデータの羅列へのアクセス権をもらっているだけだ。しかし我々はそこにもはや生活になくてはならないほどの価値を感じている。


言ってしまえば我々が漠然と信じているお金というのも、すでに物としての価値を喪失し、ただの記号でしかなくなっている。1万円だって、社会的信用によって価値が担保されたただの紙切れであるし、近年のビットコインでは、物理的な形すら存在しない。それはただのクラウド空間に浮かぶ、デジタル信号の羅列でしかない。価値があると思っているのはただの、モニター上に表示された数値の羅列だけだ。


こうやって、世界中のあらゆるのものがクラウド化して、フラット化してそれでも最後に残るものがあるとしたらそれは一体何なのだろう? 最後に我々が行き着く未来とはいったいなんなのか?

「人間がコンピューターを使うのか、コンピューターが人間を使うのか?」

ここ最近人工知能というキーワードが話題になっている。Googleの人工知能がつくった画像というのはとても興味深かった。

興味があっていくつか本を読んで調べてみたのだけど、人口知能というのは、まだ人間が当たり前だと思っている総合的な判断というのは、できないらしい。

机の上においてあるガラスのコップに水が入っている、という3歳の子供なら当たり前に認識できるようなものも、まだ人口知能にはそれが有機物なのか、無機物なのか、ガラスの塊なのか、何なのかという総合的な認識がとても苦手らしい。

人間の認識とそもそもの構造が違うのだ。その一報で、コンピューターには人間がどうやっても勝てないような、計算処理能力や記憶容量の多さがある。

我々人間はその特性を活かして、自らの計算力の補助脳として、記憶力の補助脳として、コンピューターを使っている。

ただ、我々が自らの脳の計算力や記憶力の補助としてコンピューターを使うように、コンピューターが自らの計算処理能力や記憶容量の補助として人間が持つ総合的な認知力を利用するようになったのだとしたら、彼らは我々をどうやって使うだろう?

人対コンピューターの将棋というが度々話題になるけれど、これは使っているのが人で使われているのが機械なのだろうか? それとも機械が判断するために人を使っているのだろうか? 面白いのが、同じ計算をしようとしたときに人間の脳というのはコンピューターが膨大な電力を使うのと違って圧倒的に動力、消費カロリーが小さいのだそうだ。 

人と機械の主従関係とはいったいどこまでが境目なのだろう。

むしろ、コンピューターを我々人間でも理解できる三次元の知覚可能なインターフェイス上に無理やり再現しようとするのではなく、人間が持つ認知能力そのものをデジタルデータに理解できるインターフェイス上に持ち込んだ場合どうなるのだろう? 我々その意識そのものがデジタル化した空間に取り込まれたとしたらどうだろう?


結局のところ、人間が、人類特有のものだと思っている感情や意識というのも、結局は脳への電気信号でしかないはずだ。

だとしたらいずれ人の意識や感情というのもデジタルデータ化できるのではないか? 楽しい、感動した、悲しい、幸せだ、そういったあらゆる感情を引き起こした際の電気信号の羅列をクラウド上のサーバーに蓄積して、その電気信号だけを引き出してきて、脳にあたえることができれば、それは擬似的な感情や体験をさせることも可能ではないのだろうか? 


ここまで来ると映画マトリックスで描かれた世界がこういう経緯でつくられた世界観だっただということに気がつく。

マトリックスの世界ではコンピューターが人間を管理して、脳にプラグをつながれ仮想空間での擬似人生を歩み、生体エネルギーだけを搾取される存在となっている世界。

そしてそれはすなわち、人間がクラウドサーバー上にある計算処理や記録容量を使うように、コンピューターが都合よく自分たちの知能や動力源を補うために、使われる人間の脳があるということあ。それは決して突拍子もないSFの世界ではないはずだ


「科学と宗教の境目があるのだとしたらそれは一体何なのか?」


現代文明社会は科学的なアプローチによって基づいており、無宗教の国である日本人は科学的な発想が絶対的には正しいと信じている。

だが、ふと思ったことがある。昔の人々は、当時の科学では解明できない現象を目の当たりにしたとき、それをどのように自分の中で受け止めて、解釈していたのだろう?

太陽が登るのはなぜ?
火が燃えるのはなぜ?
星はなぜまたたくの? 
人が出血をすると死ぬのはなぜ?
人が病気にかかるのはなぜ?
雷とはいったいなに?
雨はなぜふるの?

太古の人々はそのような人智を超えた現象を目の当たりにしたとき、それを「神」による差配として解釈して乗り越えてきた。

一方、現代の我々は、それら様々な現象について科学的アプローチで検証を重ね、論理的に理解ができるようになった。

そして多くの科学技術のテクノロジーは、科学的検証の積み重ねの上になりたっている。

インターネットは神がつくったものではないし、Wi-Fiがつながるのは神のおかげでないし、iphoneが動くのは魔法のおかげではない。

我々のそれらは現代科学技術の粋を凝らしてできたものだと、「信じて」いる。

前人の多くの知識の積み重ねとして、様々な知見をモジュールとして使うことができるようになった。リモコンを押して、テレビのチャンネルを変えるのにリモコンの原理を
知る必要はないし、アプリをつくるのに、半導体が動くメカニズムを知る必要はない。半導体とはこういうふうに動くものだという既知の積み重ねによって、たとえそれが必須の技術だったとしても、その知識がなくてもアプリをつくることができる。

現代の多くの科学技術がこうした前人の知識と経験のモジュール化によって成り立っている。

そして、我々は漠然と探していけばそのモジュールがどのようにして成り立ち、形成できるか究明できると信じている。

ただ、あまりにも多くの技術や経験がモジュール化していくこれからの時代、それを原理的なレベルで理解できる人がいずれいなくなっていくのだとしたら、それは神がつくったものと何が違うのだろう? 

すでに、我々はその世界に突入していて、これからの人類の年月の中でそれらの系譜を体系的に理解できている人が、消えてロストテクノロジーと化していくこれからの時代、例えばそこにGoogleがあるのが当たり前でもはや人智の及ぶところではないという人々が多くを占めるくらいな幾多もの年数を重ねたとき、Googleは神がつくったものとして定義されうる時代がくるのだろうか?


そして現代科学技術の粋を凝らしても未だ解決できないのが、「死」という概念である。

人類はそこに、宗教という概念を当てはめた。そしてそれは現代もなお続く。
あまりにも多くの事象が科学的な見地に立脚し解決していく中で、死というものへの解釈が宗教の最後の拠り所といっても過言ではないだろう。

例えばキリスト教やイスラム教をはじめとする多くの宗教は終末論を描く。

我々にはいずれ終末の日が訪れ、その日が訪れた際には、神により今までの人生のあらゆる善悪の行為が明らかにされ、神による最後の審判が行われ、天国や地獄行きが決まるのだと。それまでは我々の魂は一時的に眠っているだけに過ぎない、と。

無宗教の日本人からするとなんとも理解し難い解釈である。


だが、それがこれから訪れる恐ろしいほどのテクノロジーの発達で実現されうるのだとしたら?

例えば、天国と地獄の判断という朧気なるその解釈が、これから訪れる膨大に広がる電脳クラウド空間へのアクセス権だとしたら? 

神がその人のすべての行動を見納め、その最後の審判を下すという途方も無いその定めが、生まれてから死ぬまでのスマートフォン端末により蓄積された行動履歴によって、ログとして残されていて判断できうる時代が来るのだとしたら?


それは、宗教が現代の科学を踏襲して生まれる新しい宗教の始まりではないのか?



「ホモ・サピエンスは5億年ボタンの夢を見るか?」

遙かなる未来、そして、それは指数関数的に成長を遂げる現代においては果たしてそう遠くない未来かもしれない先に、我々の自我、意識というものをクラウド空間に移行することが可能となる未来が訪れるのだとしたら、我々の社会には一体どのような未来が待ち受けるのだろう?


それは、死というものの定義が、変わる世界だろうか。

肉体としてのハードウェアは生体活動を続ける限り、いつかは衰え朽ち果てるだろう。ただ、意識そのものをデジタルデータとしてコンピューターに写すことが可能だとしたら、それは死と呼ぶべきものに値するのだろうか? あるいは生死というものは機械と同じように単なる電気スイッチのオンとオフによって区別されうる程度のものとなるのだろうか? 悠久の彼方に続くまで存続すうる自我は生なのだろうか? 死なのだろうか?


ネット上で有名な寓話に、「5億年ボタン」というものがある。何年も前の雑誌に差し込めたジョークのような漫画なのだが、そのインパクトの強さから何年も語り継がれる漫画である。

「主人公はボタンを押すだけで100万というある簡単なアルバイトを持ちかけられる。このボタンを押すとその一瞬でボタンを押すと空間に飛ばされて、そこは餓死などの心配もなく、寝る事も出来ない。自分の身一つで5億年生きられる設計となっているという。5億年経過すると、全ての記憶が消去され、元の場所へ戻る。そして100万円を入手できる。押した本人はボタン押して、ただ100万円出てきた様な錯覚に陥るが、実際は気が狂う程の5億年を過ごしている。」 goodluckjapan.com





そんなどことなく後味の悪い漫画だ。

一見、現実味もない突拍子のない話だが、果たしてこれから訪れる未来の世界にそれは身も蓋もないも話となりうるのだろうか。


遠くない未来の世界、人間の意識、自我が電脳空間、クラウドに取り込むことが可能だとしたら、それはデジタルデータとして保存可能な限りなく無限に近い命を得るということだ。そして、それは記録媒体に記録されたデータがまるで、記録媒体やネット空間を縦横無尽に転送されていくように、人もまた自らの自我や意識が電脳空間上を彷徨うということだろうか。

人間の意識や自我が電脳クラウド空間に取り込まれたとき、一時的にその電源をオフにすることができるのだとそれは仮死なのだろうか? あるいは死なのだろうか? 電源が再びオンになればそれは蘇生なのだろうか?死の先にある生なのだろうか? そしてそこの生と死の間にはいったいいくらの年数が流れていることになるのだろうか?
 
生体としての自我や意識が終わり、悠久の時を経て電脳クラウド空間に再度自我と意識が生を受けるとき、人は何を思うのだろう? 

相対性理論によりあらゆる物質は光速を超えて移動することができないとされている。
しかしながら、データなれば限りなくそれは光速に近い早さで転送することが可能である。

どうであろう? 例えば自分という生体物質そのものを転送することは難しいのだとしたら、自我や意識というデータそのものを転送して、仮に受信側でそれを受け入れるハードを用意できるのだとしたら、それは実質的には自らが光速で移動したということになりうるのだろうか? そしてデータを転送することができるいうことはコピー&ペーストもまた可能だということだ。そしてそれは、何億光年も離れた惑星に、人が行くことができる唯一の可能性ということでもある。


もはや何億光年も離れた宇宙の彼方に漂う人の意識そして自我、あるいは記憶の間に忘れ去られたか記録媒体の中で、いつの日かホモ・サピエンスは、5億年ボタンの夢を見るだろうか?


そしてそのとき人類が開く扉はいったいどのようなものであろうか?


その時代にも残りうるほんとうに価値あるものはいったいなんであろう?


これから訪れるはずのそう遠くない未来に思いを馳せて、明くる日の夜は更けていくのでありました。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
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