日本人は贖罪に対しての評価が低すぎる。

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議員がいじめについての発言がどうのこうのとかで炎上していました。

前にブログに書きましたが、こういう個人を攻撃するような炎上というのは醜いなって思うです。

tokunoriben.hatenablog.com



「てめぇ いじめなんかしやがって! オラァ! どうしていじめのような人を傷つけてはいけないというこんな簡単なことすら、わからないんだこのクズが!!死にさらせ!」
「いやーほんと、いじめなんかするやつはみんなで徹底的につぶしてやろうぜ!精神的に追い込んでやれ!」
「ざまあああああ!!!wwww いじめなんかする奴はこうしていじめられて当然なんだよ!!」


みたいな「私が嫌いなのは差別と黒人です」、ギャグみたいな光景がまんま展開されていてみていて惨めな気分になります。

人と人は所詮いつまでたっても永遠に理解しあえず争いはなくならないというお手本のような例ですね。



最近、インターネッツを見ていて思うのが 人とは常に成長して変わり行くし、その過程で間違いもするし、善悪の意思決定基準も変わるというごくごく当たり前のことに対する理解と許容というものが、皆あまりにも幼稚すぎるのではないか、ということです。


例えば、今、この目の前で自分が接しているその人は、その人の一時的な一面であって全体像そのものではありません。つまるところ、この世の全ての人はたとえアニメで言うモブキャラのように見えたところでモブキャラではなく、ひとりひとりにちゃんと今までの人生があって目の前に存在しているわけです。


そして当たり前ですが人は誰しもその一面のみの姿で構成されているわけではありません。

会社ではしがない、しょぼくれた無能なおっさんが、家に帰ると、一家を背負う尊敬された父親であるように、人は様々な側面から見る角度によっていくらでもその姿を変えます。


コンビニ店員や飲食店員だって、会社の看板を背負った店員である前に、給与スキルも能力もない低賃金労働者という面もあるわけです。冷蔵庫入るなどうのこうの言う前にそもそもそんな底辺層になにをそこまで過剰に期待してるんだ?ということだって言えるわけです。

いわゆるマスコミだって、大所高所から公平に論じるマスメディアがどうのこうの言う前に実際つくってる人らは番組制作会社の実態とか見ればわかるとおり、糞ブラックみたいな職場でただただ都合の良い畜生として使い潰される労働者という側面だってあるわけです。

世の中は自分が見えているだけがすべてではありません。社会背景やその人自身のバックグラウンドによって見方はいかようにもかわります。あなた自身がひとりの個人であるように、あなたが叩くその相手もまたひとりの個人であるわけです。


ただ、こういう社会背景やバックグラウンドが理解できなければ表面的なことしかわからないので、表面的な事象だけみて善だの悪だの言ってすったもんだの叩くわけです。

まぁ、そりゃ叩いてる人らも別に本質的に問題解決がしたいわけじゃなくて、ただ目の前にストレス発散できそうなサンドバッグがあったから叩いて溜飲さげてすっきりしたいだけですからね。

え?正しいことを正しいと言って、間違っていることは、間違っていると言ってなにがいけないか?


そもそも、皆正しいとか間違ってる、っていうのもそれは、社会やバックグラウンドにとって変わるわけですよね。


あるときある場所の真実がいつまでたっても真実ではないですよ。


例えば、10歳くらいの小学校の時とかは足が早くて徒競走で早いとか、そういうことが社会的ステータスなわけですよね。足が早くてスポーツができる人が正義で、モテたり、人気者だったりするわけで、逆に足が遅かったり、運動音痴だったりすると、だせーなコイツwww 負け組乙ww みたいな感じになるわけです。

でも所詮これは10歳がそこらの人生訓の中で導き出された真理でしかないわけです。

これが30歳とか40歳になって、
「いや、ほら俺はニートだけど、お前らよりは足早いしwwwざまぁwww 」みたいなことをどんなに声高々に言ったところで、周りからは国民の義務すら果たしてないクズが。とレッテルをはられるのが関の山です。



いじめは大人になればなくなるわけではありません。

パワハラ、セクハラ然り大人になったところで種類が増えるだけで減ることはありません。

ただそこにいち法的制裁によって、抑止力が働くからその費用対効果を考えて論理的にいじめが実施されないだけです。
裁判だって、一方的に被害を受けた側の肩を持って俺が嫌だって言ったら嫌なの!死刑なの!などというロジックがまかりとおるわけでもなく、双方の言い分をよくよく聞いて何ヶ月も何年もかけて公正な判断がくだされるわけです。


幼年期とか青年期のいじめは互いに未成年である以上、法的な懲罰が抑止力にならないわけですから、それを大人のロジックでどうのこうの言ったところで事態が解決するわけではありません。
また自らの長い年月を経て培われた社会的経験から、いじめは結果として害しかもたらさないという概念の理解を、経験値が自分より低い人間に伝えるのも非常に困難です。


以上のように「俺が気に入らないと言ったら気に入らないの!」 と「いじめは悪と言ったら悪なの!」が理解し合える可能性は残念なことにゼロです。



いじめはあります。なくなりません。


そして、いじめていた人、傍観者といじめられていた人では、前者の方が多数派で社会的に成功している人が多いのは事実だと思います。

いじめられる側になるにはは単に能力が劣っていればだれでも可能ですが、人をいじめるには明確な意思と行動力と統率力が必要だからです。これらのスキルは社会で成功するためには必要不可欠なスキルです。

資本主義社会は富の収奪という側面を持つ以上、成功するためにはいじめる側のスキルや経験というのは貴重な経験だと思います。


議員だって、そもそも由来が代弁士ですから、国民の声を代弁する士であって、善を行使する人ではありません。国民に選ばれなければ即無職のおっさんなわけです。

いじめられるような能力が低く社会的にも成功者が少ないマイノリティの層より、人数も多く社会的地位のある成功者が多いマジョリティの方に付くのは彼ら議員にとってはごくごく正論だと思います。


だってほら、環境を守ろう!エコだ!と言っている人たちって、結局一番環境をバリバリ破壊しまくっている国々に住んでいる人であるように、いじめをなくそうというのも、またいじめをしていた人やそれを傍観していた人たちの目線の発言なわけです。

ただ、人は誰しも最初から万全ではないですから、時を経て、過去の過ちに気がつくこともあります。合理的ではない行動をするような義憤にかられることもあるかと思います。

その歳に必要なのは、責任の帰着というより贖罪の精神だと思います。

地球を守ろう!って言っても一番破壊してきたのおまえらやんけ!そないな奴が自然保護だのエコだの言うなや!自分の顔見て物言えや! と言ってたところで自体は何も解決しませんからね。

過去にいじめてた奴がいじめについて語ってはいけない、人間的に間違ってるというのを指摘したところで何も事態は解決しません。

逆に過去にいじめをはじめ周囲に迷惑をかけたという自覚があって、その懺悔の念、贖罪の念から、問題に向き合い、より踏み込もうと思うのはとても勇気のいる立派なことだと思います。

日本人はよく失敗に厳しいというのがありますが、それはその個人の贖罪の意識、およびそれに対する評価が低く、俗物的な報いを求める
ところが起因している一面もあるんだろなぁとふと思ってみたりしました。



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