自分は「笑っていいとも!のタモリ」になっていないか?

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そういえば先日、30年以上続いた長寿番組の笑っていいともが終わった。

笑っていいともといえば、やはり顔はタモリさんである。いいともの最終回はまさに花道にふさわしい豪華なフィナーレだったらしい。

昔からいいともをと見ていて思ったことが、「タモリさんは本当は笑っていいともをやりたくなかったんじゃないだろうか。」ということである。

僕は正直なところ、深夜のタモリ倶楽部のタモリさんの方がずっと楽しそうに見えたし、実際ああいう深夜番組のノリの方がタモリさんはとてもおもしろかった。

ふとタモリさんがいいともの最終回でどんなコメントを言っていたか調べてみると、こんなコメントを残していた。

「3カ月か半年で終わると思ってた。それが32年。私にたくさんの価値をつけてくださって、きれいな衣装を着させてもらった。本当にありがとうございました」などと頭を下げた。今したいことを聞かれると、「早く酒飲みたいな」と話した。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/04/01/kiji/K20140401007888700.html

それでああ、やっぱりそうなのか。と思ってしまった。


wikipediaで見てみると、元々タモリさんのルーツといえばジャズバーや夜の席の即興芸から始まって深夜番組にあるということがわかる。

また笑っていいとも、も始まった理由としては当時のテレビ局側の「夜の顔を昼の顔」にという、思い切った荒業が契機だったと書いてある。

その荒業が思いの他反響があり、あれよあれよと環境や仕組みが構築され、昼の顔としてここまで続いてきてしまった、というのがこの番組の真相なのではないのだろうか。

もちろん、これは僕の私見であり、真意のところはわからない。

でも、それは結局のところ本人の心の奥底でしかわからないし、仮に本心がここに上げた通りだとしても、それを周囲に話すということはそれに関わっていたたくさんの人たち、支援してくれる人たちを裏切る行為になってしまう。特にこの番組はタモリさん個人をリーダーとして依存していたところも多く、自らの進退が番組の存続に影響をおよぼす度合いを考えるとうかつにそういった感情を表に出しづらかったことは容易に推測できる。だからそういう感情は本人の奥底に封印されるだろうし、あるいはそういった人や環境とのコミットメントの関係によって、自分の中で本心の動機に折り合いをつけているのかもしれない。結局のところ、自分の真意がどうであれ、真意を「ロック」し周囲に伝えない以上、その感情が人や環境に影響を及ぼすことはない。

そう、リーダーは「ロック」される、のだ。

これは組織のリーダーが周りに理解されないし、話すことのできない孤独な悩みであると思う。

そして、これは事業を営む経営者にも同じことが当てはまる。

この間自分のブログにも記事を書いた、岩瀬さんだけど、結局あの後はてな民を煽ったらしくないブログを書いて、わざわざ謝罪文まで掲載している。

はてな民の煽りなんてしょせん2バイト文字の羅列の塵芥以下とわりきって無視しておけばいいものをなんでこんなに大げさなことになったんだろーなぁ、と思ったけど、そういえば岩瀬さんはもう、いち上場企業のライフネット生命という会社の代表取締役で社長だった。

昔、学生時代まだこの会社がまだまだ上場する前の頃、講演会なら呼ばれたらどこでも行きます!と言ってほんとに数十人かそこらの学生向けのイベントにきてしゃべっていたのを聞いたことがあって、

この人キャリアに合わず、すごい腰の低い人だなぁ、と思って本も読んでみたけど、結論として僕が思ったのは、

「この人、やりたいこと、保険会社じゃなくてもよかったんじゃねーのか。」ということだった。


規制だらけの業界にあって、前人未踏の戦後初めての独立系生保をつくるという、のは挑戦する人にとって大変やりがいのある面白い領域であると思う。

お役所や業界重鎮と台頭に渡り合うエスタブリッシュメントさと、常識を疑いゼロからイチをつくるアントレプレナーシップ、そのどちらも掛けても絶対に実現不可。

スティーブ・ジョブズにも孫正義にも決してできない芸当である。

努力は実を結び、晴れて上場となったけれど、競合に押されるライフネット生命は苦しいと思う。僕も正直、上場したときこのバリエーションはないな、と思っていた。


そういう意味ではもう彼の「自分しかできそうもない、前人未到の会社をたちあげる」ことへの挑戦のひとつの節目は終わっているのではないかと思った。

少なくとも、

「新人は朝早くきて新聞でもよんでおけよー ガハハ」「これって業務命令ですか?労働基準法違反なんじゃないですか?」

みたいな今年のびっくりゆとり新入社員みたいな発言小町のショートコントやって煽られてる姿は彼がキャリアの果てに望んだ姿だったのだろうか。

経営にはテレビと違って最終回はない。さらに日本では基本的に所有と経営の分離の問題が心理的になじみが薄く、会社は経営者に従属的な要素が非常に多い。

成長途中の上場企業の社長がやめるということは自ら会社に見切りをつけると同義だし、株価は一気に低迷するし、大損を食らった株主からは烈火の如く怒りのクレームがやってくるだろう。有終の美とはいくまい。

そういう意味では彼の影には深夜番組を捨て、笑っていいともを毎日やり続けるタモリさんの姿が見えるような気がする。


日本には何かを始めることへの美学や哲学はあっても、実は何かをやめることへの美学や哲学はない、のかもしれない。






「私、音楽が好き。だからこの仕事がしたい。」


例えば、人はみなそんなことを言う。でも、じゃあ音楽が好きって具体的になんだろう?

音楽を演奏するのが好きな人、 いろいろな音楽を聞くのが好きな人、音楽が素敵なバーをつくるのがが好きな人、歌手をプロデュースする人、

みんな「音楽が好き。」と言う。でも、面白さとかやりがいを感じるところはそれぞれみんな別だ。

自分は音楽を演奏してのが好き、だと思っていても実はレコード屋の店員みたいに好きな音楽を好きなだけ聞いて語るのが実は本当に自分が好きなことかもしれないし、

あるいはレコード屋の店員は、実は聞くときよりも、自分が人前で演奏をしているところにもっとも音楽の醍醐味を感じるのかもしれない。


自分の奥底に潜む気持ちはわかっているようで、違っていて、本当の自分が価値のあるとかんがえたりしたいとかんがえることは往々にして違っていたりする。

それを人は忙しさや環境からのコミットメントで誤魔化し誤魔化し過ごしている。

ビジネスだって同じだ。ひとえにビジネスが好きといっても、ステージも、スケールもまったく違う。

本当に自分これがやりたいことなのか?  岩瀬さんはいまの会社の社長を続けることが自分の使命だったのだろうか?

ついでに、もう一人、けんすう氏はほんとにナナピなんて生活に役立つHowtoのレシピサイトを会社の社長やってまでつくりたいのだろうか? 

たまたま初動の数字が良くてついつい作り始めちゃったけど、NaverまとめやGoogleのアルゴリズムにふりまわされる毎日よりも、身軽に片手間で流行にのったウェブサービス何個も立ち上げたりそういうことが実はしたいんじゃないか? 

もちろん、両者の方にもきちんと会ったことないので、僕にはわからないけれど。例えば、それに携わった記憶だけを全部消して、「これこれこういう会社あるんだけれど、いまあなたはこの会社の社長やりたいと思う?」って聞かれたら、もちろん!って即答するのかな?



「実は、自分は笑っていいとも!のタモリになっていないか? 」

というのは、自分への人生の問いかけとしてひとつの重要なテーマだと思う。

ただ、リーダーになるということは責任を負うということだし、責任を負うということは、何かを継続をするということでもある。

いつまでも本当に自分がやりたいこと、したいことなんて追いかけてもいられない。

どこかで自分の中で折り合いをつけないといけないのかもしれないし、あるいはその過程の中でそれが自分のしたかったことだと気がついて本当に心から変わってしまうのかもしれない。


孔子の有名な言葉に「四十にして惑わず」ってのがあって初めて聞いた時は「何に惑うんだ?」って意味がわからなかったけれど、最近は少しだけその意味わかってきた。


「まず、登る山を決めよ、それで人生の半分が決まる。」とは稀代の起業家、孫正義の言葉である。


気がつけば、自分もだいぶ馬齢を重ねてしまった。

いろいろ考えていかないと行けない。


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