あなたが徳に染まってしまうその前に。
こんにちは @tokunoribenです。
今日はやたらフレッシュなスーツ姿の若者を見ると思ったら、世間では内定式が行われていたそうですね。
時の流れとはずいぶん早いものだと感じます。僕の後輩や同期、そして友人たちは皆、素晴らしい企業に就職していったので誇らしい気持ちでいっぱいですが、
その一方で世間一般では今年は内定率が低いというニュースを聞くと、まだまだ僕が知らないだけで世間では就職先が決まらず途方に暮れてる人も多いのだ、そして、彼らがどんな気持ちで今日を迎えたのかを考えると胸を締め付けられる思いがします。
これだけ世間が大騒ぎするのも、やはり仕事、というのはそれだけ人生にとって大きなものだからではないでしょうか。
以前僕もキャリアをテーマにサクっとブログを書いたら、想像以上に反響があって自分でもびっくりしました。
それだけキャリア、というのはやはり賛否両論が巻き起こる人生のターニングポイントだということです。
仕事だけが人生だとは思いませんが、それでも単純に考えて人生の7割近くの時間を働いて過ごすことになるのですから、仕事がつまらなければ人生もきっとつまらないものになってしまうのは火を見るより明らかですよね。
そのような背景もあって仕事を決めるにあたって世の中には様々な意見があります。
ある者は大企業で働くのが幸せ、だと主張するし、またある者はベンチャー企業に入ってバリバリ働くのが幸せと説く。
そうかと思えばワークライフバランスが大事だと主張する者もいるし、起業せよ若者!と豪語する者もいる。
どれも正解で、どれもが間違い、なんだと思います。
なぜならそれらの意見はその人の人生経験から導かれた人生則に基づくものであって、結局どのような意見であってもバックグラウンドが異なるあなたの人生には当てはまらないからです。
そりゃ起業して成功した社長は、起業した方がいいって言いますよね笑
まぁ、ただ、一つ言えるのは大多数の人間が自分の理想のキャリアを歩む、ということは不可能ということです。
この国ではとにかく本音がどうであれ「オンシャガダイイチシボウデス!」という呪文を唱えないと、職をもらうことはできませんので、この就職難を乗り越えて、今日晴れて内定式に参加できた人であっても、
その会社は行きたい企業群のうちではあるが、本当に一番行きたかった会社か、と言われるとそうでもない気がする、というのが本音ではないでしょうか。
あるいはもし仮に自分が最初思い描いた通り 第一志望の進路にすすむことができたとしても、それは社会にでることもなくたかだが20年ぽっちしか生きていない人生のある一点でなんとなく自分に向いているだろう、と思った仕事についた、というそれだけのことです。
それもあんたは◯◯の仕事に向いてると思う!なんていう「友達」「親」「教授」の世界三大世間知らずからもらったアドバイスを真に受けて。
僕も未だに自分の人生がこれで正しかったのかはわかりません。そしてきっと多くの人もわからないと思います。
ただ結局、自分で信じた道を歩み続けるしかありません。それが働くということなんだと思います。
そうは言いいつも、やはり渦中の人間としては。大企業に行くのがすごいのか、とか、こんな茶番地味た就職活動を行なって内定をたくさん取ることに何の意味があるのか、とか疑念は尽きないと思います。
特に不安を持って今日の内定式を迎えた人はなおさら。
いずれ社会に出てしまえば気がつくかもしれませんが、結局内定なんて人生のターニングポイントだかなんだかしりませんが、どんなにたくさんゲットしてようが、9月30日に全部強制決済されて転売も現金化も不可のどうしようもない糞オプションだということです。
かろうじてリターンというものがあるとしたら後輩に向かって「学生時代に頑張ったこと」とか「志望動機」とか今後おそらく一生使うこともないフレーズをドヤ顔で語って、「御社で働く素晴らしい人」になったり、就職支援なんちゃらからはした金をもらったり。
あるいは内定でなくてメンタル弱ってる女子大生を就職相談と称してごちそうさましたり、頭と下半身が緩そうな女子大生やOLから合コンでチヤホヤされるくらいしかないんじゃないですか?
・・・話を戻しましょう。
冒頭に書いたとおり、就職活動の結果として大多数の人間は当初描いたキャリアとは異なった進路になります。
どのような結果であれ、選べる人生はひとつです。
そのため、自分はここに行くべきだった、という自己肯定の論理が協力に働くことになります。
特にネット全盛期の現在ではでエコーチェンバー現象(自分の都合のよい情報のみ取捨選択してしまうこと)が起きやすいのだと思います。
皆様の情報収集力はただものでなく、ご自身の就職先はよく調べていらっしゃるようで、自分の会社をよく知らない不届き者には皆まるで経営者さながらに自分の会社の素晴らしさをご教授してくださいます。そしていかに自分が正しかったかを会話の随所に散りばめるようになります。
少し前には日本のモノづくりはもう終わりだ日系メーカーには未来はないと豪語していた友達が、いざ有名メーカーから内定をもらうと手のひらを返したかのように新興諸国向けビジネスやBOPビジネスに手を伸ばす自社の経営戦略を自画自賛して語っていたり、経営方針のダメだしをしていたりとかなんて話は腐るほどありますよね。
たった1年前にはお互いに真っ白な未来を語っていた学生同士だったのに、いざこうなってしまうとどこそこ業界の◯◯会社の何とかさんが先行してしまい、話もそれが中心になったりして、どことなく彼らが何かに染まってしまったような気がして得も知れないさみしさを感じてしまったりするのではないでしょうか。
では、彼らはいったい何に染まってしまったのでしょうか。
僕は、彼らが「徳」に染まってしまった、のだと思います。
このブログのタイトルには「徳」というキーワードが用いられていますが、皆様は徳とは何だと思いますか?
本格的な解釈はどこかのうさんくさい経営者などに譲るとして、
僕は一つの意見として徳とは「面の皮の厚さ」だと考えに至りました。
面の皮の厚さというと語弊があるかもしれませんが、ようは徳がある、とは「自分が正しい、当たり前だと思ったことをやりとげる行動原理や精神があり、それが周囲にも広く浸透している状態」なのではないかと思っています。
例えば、やれ支持率だのなんだと言って方向が二転三転するどこかの国の総理大臣より、自分の為に鉄砲玉となって相手を殺しにいったり、あるいは身を挺して自分を守ってくれる部下に囲まれたヤクザの親分の方がなんだか「徳」がありそうな気がしませんか?
自分のなかに行動原理を持っていない人、つまり他律的な人は、その場その場で支配的な力にかんたんに屈し、それと一体化してしまいます。そのため行動に一貫性がないので期待が成立せず、「信頼」を持つことができません。
それに対し周囲の目を期にせず、自分の価値観や倫理に則って自律的に物事を判断したり話すことができる人は、それが信頼につながります。 その信頼が大多数の支持や共感に支えられたときに徳がある、と言える状態になります。
先ほど例にあげたヤクザの親分も、やってることは反社会的で社会から責められるべきですが、任侠というある種自律的な価値観を貫き通す世界に生きていてそれを当たり前のように貫いているからこそ、その世界で生きている部下たちは親分を慕い、彼のために命をはるわけです。
つまり、徳とは「自分の世界観をそれが当たり前だと信じて、それを周囲にも求めて、受け入れられた」ときに生まれるものなんじゃないかな、って思います。
それを徳と表現すべきかはわかりませんが、まぁそれはこのブログのご愛嬌ってことで。
なぜこのような話をしたか?
それは、仕事を選ぶ、ということとはすなわちあなたがひとつの徳に染まる、ということだからです。
これはきっとあなたが社会に出て働き始めたら気がつくことなのかもしれません。
そんなあなたに問いましょう。
今、あなたがしている仕事、それはどんな意味を持っている仕事ですか?
それは果たして本当に社会にとって価値がある仕事ですか?
きっと多くの若い人々は胸を張ってイエス、と、自分の会社のミッションを答えると思います。
…仮に、それが幻想のようなものだとしたらどうでしょう?
例えば東京電力という会社を例にあげてみましょうか。
東京電力といえば、世界に冠するエネルギー企業として、大学生の人気就職先企業ランキングに名を連ねていた名門企業です。
そう、誰もが知ってるあの日までは。
定かかどうかは知りませんが、文系なんかで電力会社に就職すると最初は検針や集金業務なんかをやらされるそうです。
仮にも名門大学を優秀な成績で卒業してやる仕事が、毎日毎日一般家庭を回ってメーターを眺めたり、基地外みたいな人種と払う払わないだの言い合う仕事だとしたらどうでしょう?
果たして自分は何のために働いているのだろうか? ふっと脳裏にそんな考えが浮かんでくる日があることは容易に想像がつくと思います。
そんなともすればめげてしまいそうな毎日を、彼らは「自分たちはこの東京に安定した電力を供給し続けるんだ、エネルギーの最適サービスを通じてゆたかで快適な環境の実現に貢献するんだ」と強いミッションを自分たちに言い聞かせて乗り越えてきたのだと思います。
ただ、それもある日を境にその幻想が顕になります。あの日以降彼らを待ち構えていたのは、私たちの電力をそして都市支えてくれてありがとう、という感謝や賞賛ではなく、打って変わった罵声と中傷でした。
今の今まで彼らが信じ、毎日の支えであったもの、そんなものは多くの人にとってはどうでもいいことだったのです。
そう、大多数の人間にとって彼らが日々何を信じて働いてるかなんてどうでもよかったのです。
これは何も東京電力が云々、という話ではありません。
(こういう例示に放射能が〜利権が〜とか見当違いのことマジレスする人ってたまにいるんだよね。)
どんな働き方をする人であれ同じような事はきっとあると思います。もちろん起業家も。
そう、大多数の人間にとって、あなたがしている仕事というか信じているものは、どーでもいいのです。
ソーシャルゲームで世界に勝負したい? ただでさえ時間を惜しんで努力しないと行けない貧民に何の生産性もない時間を浪費させて、金もむしりとるなんてそんなビジネス、畜生の所業じゃん?
世界中の人たちにおいしい飲み物を届けたい? 売ってるの砂糖水じゃん。何とかキャンペーンとか必死で考えてるけどぶっちゃけどうでもいいだろ。
金融を通じて経済の潤滑油になりたい?金融なんて金にハイエナのように群がる社会の最底辺の卑しい業種じゃん。
ましてあなたが宗教のように毎日追っかけている数字なんて、何の意味があるんだ?
売上? 営業成績? KPI? シェア? あんたがたいそう大事がって必死に追いかけてる数字なんて、社会にとってなんの意味があるんだ? なんか世界変わる?
結局誰しもが幻想を信じて日々を生きている、自分のやっていることがどんな意味があるんだろうか、という疑念をより強力な何か、徳、とでも言うようなもので打ち消して騙し騙し働いている、それが働くということのもう一つの姿なんじゃないでしょうか。
胸を張って自分の仕事にイエスと答えたあなた、きっとあなたはもう何かの徳にそまってしまったんだと思います。
じゃあ、僕達はどう生きればいいのでしょうか?
誰にもわかりません。
ただ僕はその一つのヒントをかの起業家に見出しました。
世界最大の企業Appleの創業者であり、イノベーションとは何かを世界に問うた、スティーブ・ジョブズ。
その彼がスタンフォード大学で行った感動的なスピーチをご覧になった方は多いと思います。
スタンフォード大学という世界に名だたる名門大学の卒業式、
ある者は大企業に進み、ある者は起業を志す、またある者は政治で社会を変えようし、ある者は人類の叡智を求めてさらに研究を続ける、
そんな様々な希望が交差する最後の場、卒業生に向けた彼のスピーチの最後はこう結ばれています、
私が若い頃 "The Whole Earth Catalogue 全地球カタログ" というすごい出版物があって、私と同じ世代ではバイブルのように扱われていました。それはステュアート・ブランドという人が、ここからそれほど遠くないメンローパークで制作したもので、彼の詩的なタッチで彩られていました。1960年代の終わり頃はパソコンもDTPもない時代ですから、全てタイプライターとハサミとポラロイドカメラで作られていました。それはまるでグーグルのペーパーバック版のようなもので、グーグルが35年遡って登場したかのような理想的な本で、すごいツールと壮大な概念に溢れかえっていました。
スチュアートと彼のチームは ”The Whole Earth Catalogue” を何度か発行しましたが、ひと通りの内容を網羅した時点で最終号を出しました。それは1970年代半ばで、私がちょうど君たちの年代だった頃です。最終号の裏表紙は、朝早い田舎道の写真だったのですが、それはヒッチハイクの経験があればどこか見たことある光景でした。写真の下には "Stay hungry, Stay foolish." という言葉が書かれていたのです。 Stay hungry, Stay foolish. それが、発行者の最後の言葉だったのです。それ以来、私は常に自分自身そうありたいと願ってきました。そしていま、卒業して新しい人生を踏み出す君たちに、同じことを願います。
Stay hungry, Stay foolish.
ご清聴ありがとうございました。
そう、人類史に名を刻む偉大なる起業家がこれから社会に出ていく若者へ向けた最後の結びの言葉は、
夢はいつか叶うでも、諦めるな、でもなく、ただ一言
「Stay hungry, Stay foolish」
と結ばれています。
人は誰しも、自分が正しいと思う世界を見てる
もしかしてそれが正しい生き方かもしれないし、間違っている生き方かもしれない。
ただ、もしイノベーションと呼ばれるような一つの革命があるのだとしたら、
それはあなたの目の前に広がる世界、そしてその世界に染まってしまった自分ですら疑うことができる「貪欲な好奇心」
そして、自分とは違う世界の「愚直に受け入れる謙虚さ」でしか、開けない。
僕はずっと自分と世界を疑える人間でありたい。そして全ての異なる世界を受け入れられる人間でありたい。
Stay hungry, Stay foolish,Before you are dyed virtue.
貪欲であれ、愚直であれ、あなたが徳に染まってしまうその前に。